L. ロン ハバードの史跡
アリゾナ州フェニックス、オズボーン・ロード
「この会議には、書籍『Dianetics 1955!』に含まれるデータの概要説明という主要な務めがあります。
最初のファウンデーション、ハバードDianetic調査ファウンデーションが、再びフェニックスへと帰郷したという事実を考慮して、この会議にはまた、DianeticsとScientologyの再統合をはっきりと示すという役割もあります。」—L. ロン ハバード
これらの重要な出来事は、Scientologyの歴史における変革の時期を示すものでした。それは、アリゾナ州フェニックスのイースト・オズボーン・ロードにある史跡から発信されました。L. ロン ハバードはそこで研究と発見の道を歩み続けていました。
それは1954年の秋のことでした。 L. ロン ハバードは、国際ハバード・サイエントロジスト協会(HASI)の指導の下、フェニックスをScientologyの世界の中心地にしました。 HASIは、当時、フェニックスの中心街にある7つの施設を占めていました — ハバード・プロフェッショナル・カレッジ、上級臨床コース(ACC)の講演ホール、オーディティング・ルーム、管理運営オフィス、さらには発送と印刷のセンターまで — 全てはハバード氏によって北3番通り 806番地にある、彼のオフィスから調整されていました。
ハバード氏は第8回ACCを終えるとすぐに、第9回ACCに取り掛かっていました。彼はまた、毎週の、一般向け講演とグループ・プロセシング・セッションのシリーズも始めました — 『黄金の夜明け:フェニックス夜間講演』です。
この時までは、DianeticsとScientologyは別々のものとして存在していました — 明確に異なる主題、別々の都市にある別々のオーガニゼーションです。 しかし、歴史的な変化があり、ハバード氏はハバードDianetic調査ファウンデーション(HDRF)をカンザス州ウィチタからフェニックスに移しました。 この出来事を印象づけるのは、トレーラートラックで9トン近いDianeticsの教材が、北3番通り 507番地の、新たに設立されたHDRF本部に届いたことです。
10月、増え続ける執筆と調査の要求に応えるために、L. ロン ハバードがキャメルバック山を離れ、イースト・オズボーン・ロード4451番地の、より大きな場所に移りました。
彼のオズボーン・ロードの敷地は、プレーリースタイルの際立った代表例と言える建築で、1948年に建てられたものです。当時は、その後フェニックス郊外の住宅地へと開発された、広大な柑橘園の中にありました。 事実、ハバード氏が1954年に初めて訪れた時、その場所にはまだ、その果樹園からの40本ほどのネーブルオレンジの樹が整然と並んでいました。